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司書が本当にお勧めする本

『わたしの美しい庭』良心の呵責ではない同情は存在するのか?

物語の主人公は10歳の少女百音(もね)。事故で両親を亡くし,母親の元結婚相手だった統理(とうり)と二人で暮らしている。近所の人たちは二人が「なさぬ仲」だから複雑な家庭と思っている。二人は統理が所有するマンションの一室に住んでいて,朝になると同じマンションの住人で屋台バーを一人で切り盛りする路有(ろう)が朝ご飯を作りに来てくれる。統理と路有は高校時代からの友人で,路有がゲイであることを周囲にカミングアウトしたころからの友だちだ。3人の住むマンションの屋上には美しい庭があり,庭の奥には「縁切り神社」が祀られている。統理はこの神社の神主でもあり,そこには人との縁や心の迷いを断ち切りたい人が訪れる。

この作家の作品をいくつか読んだけれど,この作品だけが他とは違う色をしていると感じる。他の作品ではもっと暗かったり不幸だったりどうしようもないという感じをつきつけるようなシーンがあるが,この作品では「仕方ないね」くらいに書かれている。主人公が大人びているとはいえ少女なので,まだ人生が始まったばかりの明るさがどうしてもあって,それが優しい光のように作品全体を明るくしている。そして,もう一つの光が血のつながった家族以上に家族らしい3人の暮らしぶりだ。人から見れば「なさぬ仲」の親子+ゲイの友人は「大変な家族」でも,三人は楽園で暮らしているかの如く幸福だ。結局人は人を理解することはできはしない。簡単に分かったふうにいって共感するのは自分の良心の呵責のためで,その人のためなんかじゃないのかもしれない。だから報われない話をきいて「分かるよ」と共感したふうにふるまう自分がいて,

良心の呵責はおまえらの荷物だよ。人を傷つけるなら、それくらいは自分で持て」

という統理の言葉に,はっとする。

この小説では登場人物すべてが,はた目には問題?を抱えている。統理は正当すぎ,潔癖すぎて離婚してしまったのだし,百音は「なさぬ仲」の父親のもとにいる不幸な子だし,路有はゲイで恋人を女性に取られてしまったし,他にも何かしら問題を抱えている人たちが出てくる。けれど「つかずはなれず」距離と親しさと礼儀をもって生きている彼らは,ままならない人生の光になると思う。

物語のない人生はないのだし,私たちは多かれ少なかれ浮かばれない人生の主人公なのだから,不幸自慢に意味はない。ただ何もしてあげられないけど,報われない仲間としてだまってそばにいることはできるし,それはきっと同情とは違う優しさだ。

そんなふうに思える,良い小説だった。