司書の本棚

司書が本当にお勧めする本

『このよで いちばんはやいのは』考えをめぐらすという体験を

本より,インターネットという人が増えている。子どもに限らず,どんな世代でも。

私はもちろん,本の側に立つ一人だけど(インターネットも使いますが,どちらが好きかと言われたら,迷いなく)それはどうしてかと,ときどき考えてみる。

あくまで個人的な意見だけれど,(情報の信頼性が・・・とか,書いた人がきちんと分かるからというような説明のつく理由ではなく)本のアナログさが好きなのだと思う。

まず手に重みがあって,自分でページをめくらないといけないところや,頭の中でことばを映像に構築しなおしていく過程,そして作者の意図に思いを巡らせること。

この科学絵本は,題名の通り「このよで いちばんはやいもの」について考えを巡らせていく絵本だ。まず,「動物の中でいちばん はやいのは?」つぎに「人間が作り出したもののなかで いちばんはやいものは?」「生き物や乗り物以外のもので,はやいものは?」そして,さいごに「考え得るものの中で,いちばんはやいものはなにか」という問いに巡りつく。

そういう思考を深めるプロセスを,科学絵本は短い時間で体験させてくれる。考えるということが本を読むことの楽しみの一部だということに気づかせてくれる。同時にそれは知ることの楽しさであり,学ぶことの楽しさとも深く結びついているのだと思う。

 

『日のあたる白い壁』絵と出会う幸福を,ことばに変えて

美術館に行くことは,私にとって読書と同じように,生きていくために必要な行為だ。

そして,疲れているときは,図書館より美術館が安らぐ。

この本にあるゴーギャンの言葉を借りるなら,絵画のなかでは一言の説明もいらず「すべては一瞬のうちに尽くされるのだ」から,人はただ絵の前に立つだけでいい。言葉を探さなくていいし,伝えようとしなくてもいい。だから,疲れたときは美術館に行く。

 

そんな絵に対峙するときの気持ちを,この本は丁寧に紐解いてくれる。作者自身の好きな絵を紹介するだけの本ではあるが,画家の人となりや絵の背景にあるエピソードなども作者の視点で時々語られる。読めばきっと,その絵を自分の目で「見たくなる」だろう。一瞬を永遠に閉じ込めた物語を,自分ならどんなふうに「読む」だろうかと,想像しながら。

だから,そんなふうに「絵」を読んでみたい人に,この本を勧めたいと思う。

「家の壁に,一枚だけ飾るならどの絵が良いか」と考える場面が出てくるのだけど,そんなふうに考えながら読んでみるのもいいと思う。

 

 

 

『みどりいろのたね』種を植えることで育つもの

絵本から児童書へと移行する時期に,お勧めしている本。

 

主人公のまあちゃんは,うっかりものでわすれんぼで,めんどくさがり。学校で種まきをした日,こっそり食べていたメロンあめをたねと一緒に植えてしまう。

水やりも忘れたままのまあちゃんに,たねたちはもんくを言い始めるけど,水をもらえなくてもぜんぜんへいきなやつが,ひとりいて・・・。

 

なにより,まあちゃんのあっけらかんとした明るさに元気をもらえる。小さな種から,何かが育つワクワク感も味わうことができる。たねとメロンあめのやりとりも,コミカルで,自分で読む方が絶対に楽しいお話。(絵のすきまにマンガのようにことばが書かれているので,自分の読みたいように読む方が楽しいから)

そして最期の場面が,子どもにはたぶんいちばん納得できる展開だと思う。

きっと「最後まで一人で読んだ」を体験できる一冊になると思う。

 

『ザリガニの鳴くところ』ゼロから人生を切り開く少女の物語

結局,女ほど孤独な生き物もいないのではないかと思う。命を宿した時のために,一人でも痛みや不安に耐えていけるよう,孤独を味わうために作られているのだろうか。

この物語の主人公カイアの孤独は舞台である湿地のごとく果のないぬかるみの様な孤独だ。アルコールに溺れ家族に手を上げる父親に耐えられず,まずは母親がそして兄弟たちも次々に家を出ていく。一人残されたカイアは父親と何とかうまくやっていこうとするが,貧困と差別が父親を追い込み出奔。カイアは10歳で天涯孤独となる。彼女は学校へ行くこともなく,誰かに育てられることもなく,社会から孤立し,ゼロから自分を作っていく。彼女の成長を描くのがこの物語の1つ目のストーリー。

そしてもう一つは同じ町で20年後におこる殺人事件をめぐるストーリー。町の裕福な家庭に育ったチェイスという青年が湿地で死んでいるのが見つかる。そして,捜査の結果カイアは殺人犯として捕らえられ,裁判にかけられることになる。

カイアの成長物語と20年後の殺人事件とが交互に描かれ,最後にはすべての伏線が回収され二つの物語が見事に重なりあう。

ひどい差別や偏見の中で,カイアを育んだのは,湿地の美しい自然と生き物たち。まるで巣から落ちた卵から,美しい白鳥が育ったような少女カイア。人の強さや美しさが本来自然から受け取ったものだと思い出させてくれる。そして,女とはこれほどまでに強いのだと,思い知らせてくれる。

植物,水音,光,砂浜,野鳥,本を読む喜び,初恋,etc.......。ひみつの宝がたくさん詰まった箱を,森の奥でこっそり開けてのぞいているような,何とも言えない贅沢な時間を味わえる一冊だった。

 

 

 

『記憶喪失になったぼくが見た世界』子どものこころで,世界を見たら・・・

大学1年のある日,バイクの事故で記憶喪失になった「ぼく」のその後を描くノンフィクション。

「ぼく」は子どもというより,産まれたての赤ちゃんが見ているような視点で世界を見ている。

知っている言葉だけで,目の前の知らないものを見つめたり,感じたりしているから,ただの日常的な手垢まみれの普通の情景を書いているのに泣けてくるほど美しい。世界が喜びに満ちていた子どものころが私にもあったのだけど,ぼんやりとした断片が残るだけで今はもう言葉にできない。でも,「ぼく」は記憶喪失になり,そのキラキラした子どもの目でもういちど世界を見ている。純粋すぎて,美しすぎて,目がくらむような世界を。

はじめて時計をみて,針の形がどんどん変わることに見とれて朝を迎えたり。ぴかぴかの光るつぶつぶを口の中へ入れて,口を動かしてみると「じわり」と感じるものがあり,「ごはんはおいしい」ということを理解したり。どのエピソードもいつかの私であり,でも覚えていない幸福の記憶だった。だから、おでんのだいこんにからしをつけて食べる描写だけでも,泣けるほど感動してしまう。

家族の支えもあり,もちろん彼の努力もあり,すばらしい出会いもあり,彼の世界は再びゆっくりと回り始める。

この本は誰もが忘れているけれど,どこかに大切にしまっている世界とのファーストコンタクトの瞬間を見せてくれる。そして同時に,いのちのしなやかさも描いている。人はどんな出来事からも,やり直すチャンスを手の中に握っている。

「人間ってなに?」と,著者は混乱の中で何度も問いかけているが,人間とは本来強く美しいものなのだということを,まっすぐに伝えてくれたのは子どものような「ぼく」だった。

それから,最後に付け加えると,彼の背中を押し続けるお母さんも,本当に素晴らしかった。事故で怪我をして,記憶も失った我が子の背中を押すなんて,相当の勇気と信頼がなければ絶対にできはしない。私も勇気と信頼を持って,息子たちの背中を押したいと思いながら、本を閉じた。

 

 

『光のとこにいてね』小舟に乗って,魂の片割れを探す旅

7歳で出会って別れ,15歳で再び出会って別れ,29歳で三度出会う二人の女性の物語。

短い出会いの瞬間に,二人は充分に運命を感じ,お互いが光と闇,雨と虹,海と空のように切っても切れない何かだと信じる。一人は裕福な家庭に生まれたが,嘘つきで傲慢な母親に育てらた小瀧結珠(こたきゆず)。もう一人は団地住まいで,何かに依存して心酔し,飽きる(もしくは飽きられる)ことを繰り返すシングルマザーのもとで育った校倉果遠(あぜくらかのん)。

二人が求めているのは終始自分を愛してくれる「母親」で,でもその願いは残念ながら叶わないから,彼女たちは母親を求めるようにお互いを求めてしまう。けれど本当の母親たちが二人を振り回し,海の上の小舟みたいい一瞬出会って,短い約束をして別れることを繰り返す。

 

思えば中学生のころ,私にも果遠ちゃんみたいな友だちがいた。きれいな子で運動神経がよくて,だからなのか同性にはのけ者にされて,異性から自分を守るためにショートカットにしてかわいらしさをかくしていた。お互いの秘密をたくさん話したけど,今はどうしているか知らない。最後に会ったのは20歳のころだったと思う。話していると恋人といるより,楽しくさえあった。私たちの小舟はもう出会うことはないかもしれない。けれどこの本は私に彼女を思い出させた。

ライバルでも同志でもない女友だちはそう作れるものではない。この物語を読んで二人の関係を「恋愛関係」のように感じる人もいるかもしれないけれど,

私はやはり「恋人」ではなく「片割れ」と思いたい。

二人は恋人みたいに性欲が入り込む隙間すらない,魂の片割れなのだと。

 

この本には二人の物語のほかにも,心に残る言葉がいくつかあった。

人が別れるとき,捨てるのはいつも弱い人の方で,強い人から別れを切り出すと結局自分が辛くなること。

逃げたって解決にならない,なんていう人は想像力がなくて,逃げは立派な解決策でもあること。

今を生きている幼い子供に「時が問題を解決する」と説くことの無駄と残酷さ。

などなど。

タイトルの『光のとこにいてね』は二人が交わした約束の一つ。そして物語の終わりも,光に包まれていた。母親という存在に振り回され悩んでいる人には開いてほしい本だと思う。環境は人それぞれ違っていても,この本にはだれかの「光」になり得る部分があって,「光のとこにいていいよ」と思わせてくれる希望がちゃんと書かれていた。

 

 

『13歳からのアート思考』絵をみるということを通して

高校時代から美術館に通っていた。文字の世界もいいのだけれど,絵の世界は一層静寂に満ちていてるところが好きだった。語り掛けるのではなく,絵はただそこにある感じがして(もちろん饒舌な絵というのもあるけど),読書も含めて言葉の世界に疲れたときはただ絵の前に座っていたいと思った。

心に残る絵を上げれば,それこそきりがない。それほどに,絵をみることは,読書と同じく心が必要としていることだったと思う。

幸運なことに次男は絵を描くことが好きで,大きくなってからは一緒に美術館に行くようになった。もともとこの本は彼に勧めるつもりで読んだ。

アートが伝えようとしてきたものの歴史を振り返りながら,実際に名画を鑑賞する過程でアート思考について学んでいく入門書として書かれている。題名にある通り,13歳でも十分理解できる言葉と内容で,この本を読むと美術館に行って絵の解説を読むより大切なことがきっとわかると思う。

結局,絵も本も,大切な何かを伝えるために,誰かが限りある命のなかの大切な一時を使って私たちに残してくれたものだのだと思う。だから,一つでも多くの誰かの思いを受け止めたいと思った。