司書の本棚

司書が本当にお勧めする本

『記憶喪失になったぼくが見た世界』子どものこころで,世界を見たら・・・

大学1年のある日,バイクの事故で記憶喪失になった「ぼく」のその後を描くノンフィクション。

「ぼく」は子どもというより,産まれたての赤ちゃんが見ているような視点で世界を見ている。

知っている言葉だけで,目の前の知らないものを見つめたり,感じたりしているから,ただの日常的な手垢まみれの普通の情景を書いているのに泣けてくるほど美しい。世界が喜びに満ちていた子どものころが私にもあったのだけど,ぼんやりとした断片が残るだけで今はもう言葉にできない。でも,「ぼく」は記憶喪失になり,そのキラキラした子どもの目でもういちど世界を見ている。純粋すぎて,美しすぎて,目がくらむような世界を。

はじめて時計をみて,針の形がどんどん変わることに見とれて朝を迎えたり。ぴかぴかの光るつぶつぶを口の中へ入れて,口を動かしてみると「じわり」と感じるものがあり,「ごはんはおいしい」ということを理解したり。どのエピソードもいつかの私であり,でも覚えていない幸福の記憶だった。だから、おでんのだいこんにからしをつけて食べる描写だけでも,泣けるほど感動してしまう。

家族の支えもあり,もちろん彼の努力もあり,すばらしい出会いもあり,彼の世界は再びゆっくりと回り始める。

この本は誰もが忘れているけれど,どこかに大切にしまっている世界とのファーストコンタクトの瞬間を見せてくれる。そして同時に,いのちのしなやかさも描いている。人はどんな出来事からも,やり直すチャンスを手の中に握っている。

「人間ってなに?」と,著者は混乱の中で何度も問いかけているが,人間とは本来強く美しいものなのだということを,まっすぐに伝えてくれたのは子どものような「ぼく」だった。

それから,最後に付け加えると,彼の背中を押し続けるお母さんも,本当に素晴らしかった。事故で怪我をして,記憶も失った我が子の背中を押すなんて,相当の勇気と信頼がなければ絶対にできはしない。私も勇気と信頼を持って,息子たちの背中を押したいと思いながら、本を閉じた。