司書の本棚

司書が本当にお勧めする本

『ぼくのブック・ウーマン』本と人の出会う場所で働くということ

どんな仕事も尊いものだけど,私はたくさんの仕事から司書を選んだことを誇りに思っている。

毎日本を読んでいる。当然本を登録したり,配架したり,返却したり貸し出したりしている。事務的で,静かで,変化の少ない毎日だ。

人によっては退屈だと思うかもしれない。

けれど,毎日本を読んでいるから一年に何百もの物語と出会い,その何倍もの人と出会っている。私としてはとてもドラマティックな日々だ。

そして,ときどき本が人を変える瞬間に出会う。それはこの仕事の至福の瞬間でもある。ここに図書館があり,本があって,人が人生を変えていく。物語が現実の世界に流れ込み,想像の人物が現実の人間に変化をもたらす。

この絵本は一人の少年と本との出会いを切りとった実話をもとにした物語。

私は何度もこの瞬間を見てきた。一冊の本が,または図書館という誰にでも開かれた場所が人を変えるところを。

だから,私は自分の仕事に誇りを持っている。私も誰かのブック・ウーマンであったならいいなと思う。

 

 

『オリガ・モリソヴナの反語法』強靭で美しい肉体には,強靭で美しい魂が宿る

人をけなすとき,「褒めちぎる」つまり反語法をつかってけなすというとんでもなくひねくれものの「オリガ・モリソヴナ」という女性の,一生の物語。

この物語は1930年代スターリンの行った粛清の波にのまれた女性たちの物語を追う形で進む。

革命や共産主義への大転換というあらしの中で,木の葉のようにもまれながら,自分であることを曲げてでも,女たちは生きることを選ぶ。

命のバトンをつなぐものとして,生きることを決してあきらめない,女性の強さは時に痛々しい。

大きな流れに一人で歯向かっても無駄なのだけど,それでも歯向かう強さは何のためなのだろう。何も変わりはしないのに。

けれど私にもそんな不毛なまっすぐさを出してしまうときがある。誰も見ていないのに決して姿勢を崩さずに歩くときみたいに。

そして読み終えて思ったのは,強靭で美しい(年をとっても美しくいることはできる)肉体には,強靭で美しい魂が宿るということ。いつまでも,読書をやめず,心身ともにしなやかでいたい。

 

 

『風をつかまえたウィリアム』伝記の可能性を信じて

「でんき」と言葉で伝えると,ほとんどのこどもが「電気」を連想する。それくらい「伝記」という読み物はあまり人気がなかったように思う。

でも,最近では絵本に「伝記絵本」というジャンルが定着し,本当にたくさんの作品が並んでいる。

 私は「伝記」が好きだった。学校の図書室には偉人の伝記がずらりと並んでいて,あまり読まれていなかったけれど(もちろん昔は絵本などではなく分厚く字ばかりの本),「本当の話だ」と思って読むそれは,小説を読むのとは別の興奮を与えてくれた。

 思えば「伝記」には,はずれがない。

どんな人も並外れた努力なり,経験なりをしている。或いはある日ふと素晴らしい思い付きをして誰に何と言われてもあきらめず,何かを成し遂げることで終わる。不遇な人生を送った人の伝記もあるにはあるが,少数だし,それはそれで教訓を与えてくれる。だから私は伝記を読むと,救われる気がした。この報われないがんじがらめの世界の先に,何か希望があるとちゃんと信じることができたから。

『風をつかまえたウィリアム』は貧しい国に生まれ,学校にも通えなくなったウィリアムが図書館に通い,自ら学び続け,やがて風をつかまえて発電システムを作り上げ,人生を切り開いていく物語だ。

本を閉じたとき,たしかに図書館は必要だと思えるし,どんな時にも考えることをやめないのが人間で,そういう動物である人間がいる限り本はなくなりはしないと思えた。

だから,きっとこれからも伝記絵本は増えていくと思う。そして、図書館も時代を超えてずっと存在するし、ウィリアムのような人もたくさん出てくると私は信じている。

 

『虔十公園林』(けんじゅうこうえんりん)心の美しい人のまなざしで見た世界

宮沢賢治の本の中から一冊を選ぶのは本当に難しいけれど,どうしても何か一つ選ぶなら,私はこの作品を上げる。

虔十はみんなから「ちょっと足りない」と馬鹿にされているけれど,そう言われてもいつも「はあはあ」笑っていて,「雨にも負けず」にでてくる賢治の理想「でくのぼう」そのもののような男の子。杉を植えただけで何も成し遂げることもなく,はやり病であっさり亡くなっってしまうけれど,なぜか人々の心にずっと住み続けている。

この物語は開くたびに私を癒してくれる。10分で読めるくらいの短いお話なのに,そして虔十はほとんどしゃべらないのに,読む人の怒りややるせなさをぜんぶきれいに拭ってしまう不思議な物語だ。最後の杉林の描写は,美しすぎて泣けてくるほどだ。宮沢賢治の目で見ると,世界はすべてが特別美しい奇跡のかたまりなのだと分かる。

忙しくて壊れそうなときは,目を閉じて虔十公園林のことを考える。背の高い黒い葉の茂った杉林。足の下には月光色の芝生が広がり,杉はどんな季節にも虔十のようにまっすぐ素直に天に向かって立っている。私はその下でなら,安心して満ち足りた赤ん坊のような自分になってただ「はあはあ」笑っていられる気がするのだ。

『リンドグレーンと少女サラ』手紙がつなぐ友情

 半世紀生きて思うのは,女の友情って年が離れていたほうが育まれやすいのではないかということ。年が近いと,ライバルになってしまう可能性の方が高いけれど,年が離れていればお互いの声に素直に耳を傾けられる気がする。(もちろん例外はあるけれど)

この本は,あの偉大な児童文学作家「アストリッド・リンドグレーン」と手紙を通して友情をはぐくむ少女サラの往復書簡を集録している。

文通が始まったときサラは12歳,アストリッドは63歳。人生を危なっかしい足取りで歩み始めたばかりのサラに(控えめに言ってつまずき始めてもいたサラに)それと気づかれないように細心の注意をはらいながら進むべき道を照らそうとするアストリッド。会ったこともない少女に言葉通りの「親愛」をこめてつづられる手紙は,その後20年にも渡って彼女を支え続けることになり,最初のころにアストリッドが予言したとおり,青虫が蝶になるようにサラは数々の困難を自分で乗り越え成長していく。

子どもが大人になるためには,自立した大人がそばで見守ることが大切なのだと,この本は教えてくれる。そして,アストリッドがそうしたように,見守る大人には誰でもがなれる。会ったこともない子どもの,心を支える大人にでもなれるのだ。

アストリッド・リンドグレーンは本当に素敵な,ユーモアのある,自立した,孤独な女性で,これから老いていく私にも,サラに与えたのと同じ希望や喜びをもたらしてくれた。老いていくことを楽しみにさせてくれるこの本は,これから何度も読むことになると思う。そして勇敢な老女ほど怖いものなしな人種もいないと,私は思っている。

 

 

 

 

『なぞなぞのすきな女の子』女の子とオオカミという定石

「なぞなぞ」という遊びがずっとすたれずにあるのは,きっとそれを楽しいと感じるこころがあるからなのだろう。

主人公の女の子はいつもいつも,お母さんを相手になぞなぞ遊びをしている。ある日,女の子は森へ行き,そこで出会ったおおかみとなぞなぞ対決をすることに・・・。

女の子という存在の明るさや強さ、そしてちょっとずる賢いところとそれを隠すための愛嬌などを存分に書いている。

そしてオオカミの存在。この本のオオカミはおっちょこちょいでユーモラスな存在だ。

だから女の子とオオカミという定石ながら、どこか新鮮で楽しいお話になっている。読みがたりには少し長いけれど、最後まで笑い声が絶えず、時間を忘れさせてくれる魅力ある児童書だと思う。

このお話が好きになったら,同じ作者の「じゃんけんのすきな女の子」も読んでみてください。こちらは読書感想文の本としても十分な内容で,じゃんけんのメリットとデメリットについて考えさせる一冊。

 

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『2020年6月30日にまたここで会おう』若者に必要なのは希望

「伝説の東大講義」という副題がついている。

この本は副題の通り,著者・瀧本哲史さんが2012年6月30日に母校である東京大学で,29歳までの300人を対象に行った講義をまとめた一冊。残念ながら著者は約束の2020年の再会を待たず,2019年に亡くなっている。

この作者の書いた本はどれも若い人に向けられている。今の閉鎖的で硬直した日本を変えるためには,若い人たちの力が必要不可欠で,「そのための武器」を配りたいと著書の中で何度も書いている。けれど私には「武器」という言葉は照れ隠しで,実際には「希望」を配っているように思える。

世の中を変えるのは,これからの時代を作っていく若者たちだで,その人たちに配るべきはお金ではなくは,「希望」なのだろうと思う。希望のない世界に自分の子どもを送り出したいと考える人は少ないから。

時代を変えるための希望はカリスマ的存在のリーダーではなく,正義に照らして,身に着けた知識を土台に大衆に惑わされることなく正しい選択をしていくことのできる若者。

そのような存在になり得る人は,一人でも多いほうがいい。

そして,そのうちの一人になることは,誰にでもできる。学ぶことさえやめなければ,本当に誰にでも。

最初の一歩として,この本を一人でも多くの若者に読んでもらいたい。そして社会の一員である自分に気づき,学ぶことをやめない大人になってほしいと,心から願ってやまない。